絵:坂本あきら 文章:穂波   ウィンドウを消してお戻りください

「Je te veux」

上大崎には、ふと蘇る光景がある。


昔住んでいた家であったり、旅行先で観た景色であったり、
青い空や雲や水面に現れる波紋であったり。
上大崎にとってどれも懐かしく、とても愛おしいものだった。
けれど上大崎の中で何よりも鮮明に、そして生々しく蘇るのは、天現寺橋と過ごした高校時代。

それは、なんとも皮肉な話だ。

学ランを身に纏い、まだ幼い顔立ちをした自分たちが
笑っているのを思い出す。
それだけで揺蕩う記憶の中で呼吸困難に陥り、溢れ出しそうな
何かを押さえ込むのに必死になる。
感傷とは違う。そんな生やさしいものではない。

これは嫉妬の類だと、上大崎は思った。
あのときの自分に、あのときの天現寺橋に。
あのときの自分たちにはあった何かに。

「プレゼントだよ。受け取って」

あの日、下校中の川辺でお気に入りらしい本を
渡してきたのは、天現寺橋だった。
透き通るような白い肌や漆黒の髪は美しく、
光を浴びて輪郭が金色に光る。

「え、あ、どうして?」

唐突な幸運に、興奮して上大崎は上擦った声を出した。
勢い余って前につんのめってしまう。

それを助けるように天現寺橋が上大崎の腕を引き上げると、
視線が重なり合った。

「どうしてって、誕生日だろ」
「え……、僕の誕生日知ってたの?」
「友達なんだよ。それくらい知ってるって。
でも、どうしても下巻が見つからなくてさ。
ごめん、見つけたらすぐ渡すよ」

そう照れながら微笑む天現寺橋はとても可愛くて、
上大崎は抱き締めたい衝動に駆られた。
でも、しない。
準備不足で焦ったために、今の関係が壊れるのは嫌だからだ。
不用意な行動や発言は互いに傷つけ合うだけだと、上大崎はよく知っていた。
出来れば笑顔が見たい。今のような表情を自分だけに向けて欲しい。

「あのさ、来年の誕生日に、この下巻をプレゼントしてくれない?」
「え? 何で? 続き、読まないと気になるだろ」
「いい、我慢する。だからさ、いいだろう?」
「……僕は構わないけど。優は本当にそれでいいの?」
「勿論だよ!」

戸惑ったように瞬きを繰り返す天現寺橋に、上大崎は大きく頷いた。
来年も祝って貰える理由をこじつけたのだ。
大きな瞳を更に大きくし、喜ぶ。
期待に満ちた眼差しを向けられて、天現寺橋も口端を持ち上げた。

「うん、分かった。約束するよ」
「やった、約束だからね! 絶対だよ!」

笑い合う二人の掌それぞれに、風に舞って緑豊かな葉が、
くるくると落ちる。

まるで約束の刻印のようだと、上大崎は思った。



「ん……」

――夢の途中で目が覚める。

どうやらうたた寝してしまっていたらしい。
こだわりのレザーソファーは心地よく、つい眠気に襲われてしまう。
スマホで現在時刻が午後5時なのを確認し、筋を伸ばす。
日が傾き始め、薄ら暗くなった部屋のライトを点ける。
目に止まったのは、オープンシェルフに並ぶ、
古書に植物に、地球儀、食器。
その中に天現寺橋から貰った本も一緒に並んでいる。
しかし、そこにあるのは上巻のみで、下巻はない。

「結局、約束は……」

出た声は、自分でも情けないほど掠れていた。
がらつく喉を押さえ、本の背表紙に視線を戻す。

あれを貰った数ヶ月後、天現寺橋が自分に黙って転校してしまった。
そのため、交わした約束は反故にされたままだ。
果たされない約束に、自分はどれだけ傷ついただろうか。
どれだけ恨んだろうか。
思い出して、心臓がずくりと痛む。

上大崎の望みは砂のごとく、さらさらと、手から溢れてしまっていた。
あの頃の自分は、二人だけの時間も空間も、ずっとこのままだと思っていた。螺旋の中に居るように、巡り巡って変わらないと。

しかし、変化のないものなどない。
時も物も、人さえも確実に進んでいる。
それに気付かないほど、自分は子どもだった。

いや、二人で歩むであろう時間を望んでいたんだ。

未だに、天現寺橋が転校した理由を知らない。
天現寺橋は、いつ何をきっかけに変わっていったのだろうか。
何故、自分との縁を簡単に切れたのだろうか。

「……もう、昔のことだ。僕もあの頃みたいに、子供じゃない」

そう自分に言い聞かせ、ソファーから立ち上がる。
流しっぱなしだった有線からは、聞き覚えのある曲が静かに流れている。なんだっただろうか。
ああ、サティ作曲の「Je te veux(ジュ・トゥ・ヴ)」、
フランス語できみが欲しい、だ。 

「きみが、欲しい……か」

こんな風に、もう自分は素直に何かを求められないだろう。

それでも今日だけはと、上大崎は携帯の見慣れた電話番号を押した。



煌びやかなネオンの輝く大通り。

0時近くをまわっているが、天まで塗りつぶしそうな人工の光たちのおかげで、まだ辺りは明るい。

「上大崎、ほら」
「ほら?」
「手、だよ。手」

そう言って、天現寺橋は手を差し出す。
上大崎はその手を握った。

都会の音をバックに、天現寺橋と上大崎は、何となく手を繋いで歩いていく。半ば上大崎が引っ張られる形ではあったが。

目的地は天現寺橋事務所。

「天現寺橋、もっとゆっくり歩こうよ」
「僕はこれでもきみに合わせて、ゆっくり歩いているつもりだよ」
「そうなの?」
「ああ、今日はきみの誕生日だからね、上大崎。
これでも、随分と優しくしているんだよ。手も繋いでるし」

ネオンのせいだろうか。
瑠璃色に見える瞳を、天現寺橋はじっとこちらに向ける。
何か言いたげにも見えるが、声も表情も淡々としているため、真意は読み取れない。
それでも、繋がっている掌の温りや、自分より一回り小さな肩を腕で感じ、上大崎は口元を綻ばした。

「…………」

あれからすぐ、上大崎は天現寺橋に電話をした。
事務所で羊羹を食べていたと言う天現寺橋は、肩肘でも
つきながら電話にでているのか。

「もー、いっつもいっつもお行儀悪いですよ、センセイ!」

というバサラの声が、受話器越しに聞こえた。

「ああ、今日は5月29日だったか……」
「そうさ、僕の誕生日だよ。
今から僕の誕生日会をするから、出て来ないかい? 迎えに行くからさ」
「はぁ? そういうのって、自分で企画するものなのか?」
「いいだろ、別に。僕の誕生日なんだから、僕が好きにしても」
「……なんか面倒くさい」
「ええっ!? それ、酷くない?」
「…………」

とうとう天現寺橋は押し黙ってしまった。
沈黙、受話器を隔てた向こう側で、吐息だけが耳につく。

こういう場合どうしたらいいか、上大崎はよく知っていた。

「せっかくだからね。焼き肉でもしようかなって思ってるんだ」
「焼き、肉?」

今まで無関心だった天現寺橋の声が、ほんの少し
色めきたったのが分かる。
天現寺橋のテンションを上げられる自分自身に、喜びが湧いた。

「松阪牛に神戸牛、高級な肉も用意するし、君が好きな食材も
用意するよ。
しらすご飯ばかりじゃなくて、たまにはお肉やお野菜も食べないとね」
「……馬刺し、が食べてみたい」
「勿論! 高級で新鮮なものを用意するよ! 
じゃあ、来てくれるんだね」
「……まぁ、今日は暇だからね」
「楽しみだなぁ。七時には迎えに行くから、用意していて!」
「ああ」

約束だよ、そう言って電話を切る。
そしてすぐに、予定されていた誕生日パーティーの延期メールを
社員に送った。



「ああ、ほら危ないよ!」

人にぶつかり、蹌踉けそうになる天現寺橋を支える。
力が入らないのか膝を折って倒れ込むので、咄嗟に腰を抱き抱えた。

「危ないよ。だから車で送るって言っただろ」
「いいよ。歩きたい気分なんだ」
「珍しいこともあるんだね。いいけどさ」
「…………」

抱き抱えられたまま、天現寺橋は先刻と同じように、
じっとこちらを見つめてくる。
言いたいことがあるのか口を開きはするのだが、結局、
暫くすると何も紡がず閉じられてしまう。

無言の時間が流れ、こちらをみつめる瑠璃色の瞳が深くなる。
上大崎は、まるで引力に引き寄せられるよう、顔を近づけた。

「……上大崎?」
「っ、ごめん!」

キスをしようとした自分に驚き、誤魔化そうと体を離すが、
背中に腕が絡みついてくる。
悪戯心が湧いたのか、天現寺橋は意地悪く笑っていた。

「なぁ、上大崎。誕生日プレゼント、欲しくないか?」
「え……?」
「僕を朝まで、お前に貸してやるよ」

甘い誘惑に、心がぐらりと揺れる。
頭の中では、サティの曲が繰り返し流れ続けて。

なのに瞼を下ろして蘇るのは、未来ではなく、やはり
高校時代の自分たちだった。
鮮明に思い起こされるのは、置いて行かれた自分の姿。

そして――……。

「駄目だよ」

上大崎は微笑んで、天現寺橋から体を離した。
きちんと立たせると、ついでに乱れた着物をただし、埃をはらう。

「きみはもっと、自分を大切にしなきゃ」
「はっ、子供じゃあるまいし」
「それでも!」

“貸してやるよ” なんて自分に言わないで欲しい。

どうせなら手に入れたい。

貸して貰うなんてまっぴらだ。

「それに、プレゼントはもう貰ってるから」
「?」

天現寺橋は、意味が分からないという顔をしている。
上大崎は、ふふふと笑った。
会わなくて終わる関係なんかない。
例え一時関わることがなくなっても、今までの思い出があれば、
ふとしたことで関係は動き出す。

でも、会わなくて変わる関係はある。
事実、もう自分たちは昔のように屈託無く
笑い合うことはできないだろうから。

「ありがとう、今日は一緒に居てくれて」

それでも、たまにこうやって一緒に居る。
取り敢えず今はそれでいい、上大崎はそう独りごちた。

「…………、何勝手に盛り上がってるんだよ」

天現寺橋は、怪訝そうに眉を顰める。
ぶっきらぼうに袂から出した本を、上大崎に押しつけた。

「えっ、これって……!?」

そこには、あの日と同じタイトルの本。
ただし、小さな文字で下巻と書いてある。
今度は上大崎が、意味が分からないという顔をする番だった。

「お、覚え、ええっ!!?」
「あと1分でお前の誕生日も終わりだな、上大崎」
「それがどうかし――……、わわっ!」

至近距離に天現寺橋の匂いがしたと思えば、柔らかい感触が頬に伝わる。
触れた先から流れ出る温もり。

それが唇で、キスをされたという事実に気付くまで、
かなりの時間を要した。

上大崎は、真っ赤になって頬を抑える。

「誕生日おめでとう」

先に歩き始めた天現寺橋は、もうこちらを見ていない。
それでも、後ろ姿から上機嫌なのが伝わる。

だから、上大崎も笑う。

時間はゆっくりと、0時をまわっていく。

誕生日が過ぎても、繋いだ手は離れなかった。


【了】


絵:坂本あきら  文章:穂波